ホーム > その他 > 明和義人(めいわぎじん) 江戸時代の新潟で本当にあった感動物語。
江戸時代の半ばである明和4(1767)年、財政悪化に苦しむ長岡藩は、新潟湊で暮らす町民に多額の御用金を納めるように命じました。当時、阿賀野川の改修によって船の出入りが減り、不況に苦しんでいた新潟町民は、御用金の半金を納め、残り半金は翌年に支払うことで許しを得ました。
しかし、翌年になっても景気は回復せず、残り半金の支払いが難しくなった新潟町民は、涌井藤四郎らを中心に会合を開き、御用金の支払いを先に延ばしてもらおうとしたのですが、長岡藩はこの集まりをお上に対する反逆的な行動として、藤四郎らを捕まえ、牢に閉じ込めたのです。
この動きに反発した新潟町民は、明和5年9月26日、大勢の人たちが集まって、米を買い占めて町民を苦しめていた豪商や町の有力者の家などを次々と打ち壊しました。奉行所は、この騒ぎを鎮めようとしましたが、結局失敗に終り、やむなく藤四郎らを解放し、その藤四郎たちの手によって打ち壊し騒ぎは鎮められたのです。
騒ぎを収めた藤四郎たちは、新潟湊を自分たちの手で立て直そうと、藤四郎を新潟町民の代表とする体制をつくり、秩序の回復に努めました。この町民による自治は、その後2カ月に渡って行われ、新潟湊は徐々に治安と経済の落ち着きを取り戻していったのです。
しかし、同年11月末になり、長岡藩は藤四郎たちを長岡に呼び出し、吟味の末、藤四郎と、行動を共にした岩船屋佐次兵衛を打ち首に処したのです。
新潟湊の人々は、この出来事を誇るべき史実として口伝えに語り継ぎ、藤四郎たちを明和の義人(ぎじん)として、ひそかに祀りました。
このコミックは、こうした新潟の史実を小説にした「新潟樽きぬた 明和義人口伝」をもとに、まんが制作者の感性を融合させて作成されたものです。